スクリーンと頁のあいだ#01『急に具合が悪くなる』
祖母の顔を思いだせなくなってからもう何年も経つ。だというのに彼女の手のことだけはよくおぼえていて、『急に具合が悪くなる』を見ているときもその手の感触ばかりを思いだしていた。
濱口竜介による最新作『急に具合が悪くなる』は、哲学者・宮野真生子と人類学者・磯野真穂による同名の往復書簡を映画化したもので、そもそも往復書簡を映画化するとはどういうことなのかとはじめは疑心暗鬼にもなっていたのだが、介護施設ではたらく”マリー=ルー”と演劇の演出家”真理”というおなじ名前をもつフランス人と日本人へと翻案され、しかしふたりのたましいの邂逅と共鳴の質感はそのままスクリーンに定着させられていた。
真理はステージⅣのがん患者で、「急に具合が悪くなる」可能性とともに生きている。マリー=ルーは、介護施設長として⼊居者を⼈間らしくケアすることをめざしつつも、人手不足やスタッフの無理解などに悩まされていた。ひょんなことから出会ったふたりはことばだけでなくからだも使って、世界のこと、死のこと、人間のことを語り合う。3時間16分という長い時間をかけてふたりのたましいが浸透しあってゆくのを浴びる、ほんとうに稀有な映画体験だったように思う。
本作は皮膚同士のふれあいに重きをおく。それは『不気味なものの肌に触れる』のダンスや『ハッピーアワー』のワークショップからも通底した価値観であるように思われるけれど、本作ではそれが(おもに足裏の)マッサージを通じて描かれる。足裏のリフレクソロジーや反射区の概念がどこまで西洋医学に証明されているのかはわからないけれども、たしかに他人にふれられることによる回復のようなものはあって、マッサージが好きだった祖母はよくわたしの肩や手のひらを揉んでくれた。受験勉強で肩がこるようになってからというもの、泊まりに行くたびにどこかしらを揉んでもらっていた。ほんらいであれば孫のほうが祖父母にマッサージをしてあげるもののような気もするけれども、ほとんど魔法のようにこりを消失させてしまう祖母の手には幾度となく助けられてきた。どんな食材でもおいしい料理に変えてしまい、ありとあらゆるこりをやわらかくできる祖母の手には、ほんとうに魔法がかかっているのだとしか思えなかった。
しかしそこに神的ななにかが宿っているわけではなかったことを『急に具合が悪くなる』はまた教えてくれた。マリー=ルーは介護の理想として「ユマニチュード」という概念をとりいれている。ユマニチュードはイヴ・ジネストとロゼット・マレスコッティのふたりによってつくり出された「知覚・感情・言語による包括的コミュニケーションにもとづいたケアの技法」で、「ケアを行う人々がケアの対象者に『あなたのことを、わたしは大切に思っています』というメッセージをつねに発信する——つまりその人の”人間らしさ”を尊重しつづける状況こそがユマニチュードの状態である」と定義づけられている。
ユマニチュードは四つの柱として「見る」「話す」「触れる」「立つ」を掲げている。なかでも三つめ「触れる」について本作はマッサージを通してふかく描くわけだが、この映画における「マッサージ」は「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律(通称 あはき法)」で定められた専門的なものではなく、あくまでもだれでもできる「触れることによるケア」を中心に据えて描いている。むろんそれはただ触ればいいというわけではなく、「セラピューティック・ケア」や「タクティール・ケア」のような具体的な技法、そしてなにより相手を尊重する姿勢が必要とされる。
「触れることによるケア」そのものについて書かれた本に『触れるケア 看護技術としてのタッチング』というものがある。本書は実技的な部分はもちろんのこと、神経や骨、筋肉についても語る理論的な書でもある。たとえば、ドーパミンの分泌にかかわるとされるA10神経は、「あなたのことを大切に思っています」ということを他者から表現されることによって活性化するのだという。そしてことばで表すのはもちろんのこと、ことばとともにやさしく触れられること、皮膚と皮膚との心地よい接触によってよりいっそう活性化する。この「あなたのことを大切に思っています」という姿勢は、ユマニチュードが定義の前提とするものでもある。ユマニチュードをはじめとするケアは精神的な営みであるだけでなく、神経や皮膚など物質としてのからだにも影響をあたえる。「大切に思われること」は“観念”ではなく、触れられた身体のなかで起こる“できごと”でもある。
祖母はいつもエミューというダチョウに似た鳥の脂肪からとれるオイルを使ってマッサージをしてくれて、それは特段すごくいい香りがするとかいうわけではなかったのだけれども、伸びがよく浸透性のたかいオイルだった。たぶんそれなりに値のはるものだったはずだけれど、惜しみなく使ってくれたことを思いだす。祖母にふれられることが筋肉のこりをほぐしてくれたことは、祖母のマッサージの技術だけによるものではなかったのだといまならわかる。それは「あなたのことを大切に思っています」というわたしにたいする祖母の愛情が、皮膚から皮膚へとしみこんでいったのだ。
あるいは熱を出して寝こむわたしのひたいに、水で冷やしたみずからの手をかざしていてくれたことを思いだす。その感触はわたしに「手当て」の意味を教えてくれたし、そのつめたさをいまだにひたいに感じとることができる。表情だとか背丈だとかよりもずっと、手のことを覚えている。そして「急に具合が悪くなる」ということは、その手が小さくしぼんでゆき、他人の皮膚を揉むちからすら失われてゆくことでもある。末期の膵臓がんにおかされた祖母の手にはマッサージをするだけの筋力がもはやなく、マッサージされることすら拒むようなよわくちいさな掌になっていった。黄疸によってきいろくくすんでいった。マッサージをすること/されることは、双方に一定以上の健康を要請することで、片方の具合があまりにも悪ければマッサージすらためらわれてしまう。
井戸川射子の小説『私的応答』には、衰弱した母の“腕”について書かれた一節がある。
撫でさすれば折れそうな母ちゃんの腕、撫でるいうんも、こんなに攻撃的な触れ合いやったんやと驚くほど。触れただけで打ったんかと、ずらしただけで投げたんかと、思われるほど。抱きしめるはもっと怖く、こっちが向かっていって、相手が怪我するようなくっつきようで。母ちゃんのベッドの横の窓からは、隣の家の壁しか見えへん。耐震工事を経て、同じアパートの二階から一階に引っ越しただけやから、見えるもんはあんまり変わらんけど、カーテンをはためかす風は、下がって少し勢いよわなった気がする。母ちゃんの大きな呼吸の音だけがある、どこまでを静寂と呼ぶべきか。自分やと思っていた部分が、自分の思い通りにならず、というのんを重ねていくんが老いやろうか。
——井戸川射子『私的応答』(講談社、2026)p.69
死を目前にした皮膚同士のふれあいのむずかしさ、もはやその接触を受けいれるはりすらをも失っている肌のことは、たとえば井戸川のこういう表現——「寝つくという、死の前の柔らかなワンクッション、と私の頭は母ちゃんの腕にもたれる、もたれるという、相手を潰すかもしれん触れ合い」——にも表出されている。ふれるということは、回復をもたらすケアであると同時に攻撃であり侵略でもある。
このような傷つきやすいからだへのケアも模索されてきた。骨粗しょう症や妊娠中、関節炎などつよい圧力を用いることがむずかしい患者へのケア技法として「イールド」というものがある。イールドとは、「人間が生まれて最初に行う動き」のことで、「イールドの技法」開発者である田畑浩良は、「赤ちゃんは誕生すると、お母さんに抱っこされて、授乳されたり世話をされたりしながら成長していきます。赤ちゃんがお母さんに抱かれて「積極的に身をゆだねる」という動きが「イールド」です」と述べている。
イールドについて読んでまっさきに思いだしたのはわが家に住むダックスフント“P”のことである。田畑の連載にも「イールドの達人」として猫が登場するけれども、「ゆだねる」動作にかんしては人間よりも犬や猫のほうがプロフェッショナルである。Pは4.5キロという軽いようで重い体重を、桃色のお腹と短い手足にべたっと分散させて、溶けたように床にわが身を委ねている。人間の膝のうえでもはまたべつの格好で、丸くなったり縦に伸びたりしている。最近では人間の膝にも飽きたのかあまり乗ってこなくなったのだけれど、夏物のタオルケットをもってくるとすぐに潜りこんでくる。そのときどきでゆだねる対象と兼ね合ってからだのかたちを変えていることが、犬と暮らしているとよくわかる。
あるいは人間がいかに「ゆだねる」動作をやるかでいえば、「コンタクト・インプロヴィゼーション」が参考になりそうである。コンタクト・インプロは、1972年にスティーヴ・パクストンが考案したダンスの即興形式で、「相手と体重のやりとりをしながら、そこに生じる動きの流れにまかせて動いてゆくコミュニケイティブな活動」である。文章で説明するよりもインスタグラムで「#contactimprovisation」で検索してもらったほうがはやいと思う。このダンスは町屋良平『生活』で主人公・椿が踊るもので、わたしはこの小説を読んでいらいインスタでコンタクト・インプロの動画を見てばかりいる。見知らぬ男に刺され、足が不自由になった椿は入院中にコンタクト・インプロに出会い、こんなことを思う。
ハグからはじまるあの動画でも明らかなように人間の恋愛的なやわらかい営みや、ひいては社会人としての会議のような硬質の場においてさえ、すべては「コンタクト(接触)」で「インプロヴィゼーション(即興)」なのだとかれはすぐに解釈を広げた。興奮したある夜に同じく酒に酔って鍵舌な父親に自分がCIにひかれた動機としてそれを話すと、父親もやおら身を乗り出すように「それは小説もそう、小説も作者と文体と読者とのコンタクトインプロだから」と急に熱を帯びていい、それはかれには意味がわからなかったが、きっとだれかの大事ななにかもCIと呼べるような広範な射程があるし、だからこそなにもいっていないような曖昧さ、伝わりづらさもあるのだろうなとおもった。
——町屋良平『生活』(新潮社、2025)p.233
「それは小説もそう、小説も作者と文体と読者とのイールドだから」——相手の傷つきやすさを自覚したうえでみずからの重みをゆだねるという「イールド」は、町屋に乗っかるのであればこれもまた小説であると思う。きっとイールドにもまたコンタクト・インプロのようになににでも適用できる広範さがあり、だからこその空虚はあるかもしれないけれども、それでもわたしは人間関係にも人犬関係にもイールドを見いださずにはいられない。相手を理解するでもひとつになるわけでもなく、ちがいを理解したうえで自重をあずけるということ。そういう不安定で微妙な応酬のうえにしかふかい関係は構築されてゆかないのではないか。
ソーシャルディスタンスがひとびとのあいだに物理的な距離を生み、皮膚同士のふれあいはコロナ禍でいちどがっくりと減った。攻撃や侵略にもなりうる接触がなくなったことは傷つきのリスクをも軽減しているのかもしれないけれども、それ以上にふれることのよろこびや回復が失われたことは大きな損失だったように思う。人間は他者にふれられて傷つく生きものであると同時に、他者にふれられて回復する生きものでもある。わたしたちは感染症や戦争、分断を経験してもなお身のまわりの他者の手をにぎり、背中をさすり、抱きしめることをきっとやめない(やめないでいてほしい)(それをやめないことこそが希望だと思うから)。
わたしにとって、ふれることの師匠は祖母だった。祖母の手は専門的な技術をもっていたわけではないのだけれども、その手に触れられると不思議とこころがほどけた。きっと祖母があたたかく抱いてくれていたであろう「あなたを大切に思っています」という愛情は、ふれかたに、手のひらに宿っていた。わたしは祖母のようなふれかたと手のひら、そしてわたしにあずけてくれた体温のようなものがほしい。祖母がわたしにしてくれたような愛の技法を、わたしもだれかにほどこしたい。そのために継承すべきは生きかたなのか、性格なのか、あるいはエミューオイルのブランドなのかはわからないけれど、祖母のことを思いだすたびに彼女のなにかを自分のなかに受け継ぎたいという思いがあることに気づかされる。わたしは祖母のなにをみずからの内部に生かそうとしているのだろう。なにもわからないのに祖母のやわらかくきめ細やかな皮膚の感触だけがなまなましく残っている。
・‥…━━━+.☆゚・‥…━━━+.☆゚・‥…━━━+.☆゚・‥…━━━+.☆゚
「スクリーンと頁のあいだ」は、映画を見ながら本やだれかを思いだすための連載です。Substackにメールアドレスを登録すると本連載と日記(毎週月曜配信)が届きます。ぜひ!
・‥…━━━+.☆゚・‥…━━━+.☆゚・‥…━━━+.☆゚・‥…━━━+.☆゚
作品紹介(以下公式サイトより引用)
【SCREEN】濱口竜介『急に具合が悪くなる』:世界三大映画祭すべての主要賞を獲得、『ドライブ・マイ・カー』でアカデミー賞®国際長編映画賞に輝き、世界中の映画ファンが待望していた濱口竜介監督の最新作が完成した。着想から5年の月日をかけた、日本、フランス、ベルギー、ドイツによる国際共同製作で、濱口にとって初の海外ロケ作品。大半をフランスの俳優、フランス語のダイアローグで撮りあげた『急に具合が悪くなる』。本作で3度目のカンヌ国際映画祭コンペティション部門に選出された。練り上げられた会話の応酬、複雑でいて説得力ある人間関係、映画内演劇、息を呑む美しい構図……濱口監督ならではの、緻密なダイアローグ構成と演出なしには成立しえない物語が織りなされる。
【PAGE】本田美和子、イヴ・ジネスト、ロゼット・マレスコッティ『ユマニチュード入門』(医学書院):「この本には常識しか書かれていません。しかし、常識を徹底させると革命になります。」——認知症ケアの新しい技法として注目を集める「ユマニチュード」。攻撃的になったり、徘徊するお年寄りを“こちらの世界”に戻す様子を指して「魔法のような」とも称されます。しかし、これは伝達可能な《技術》です。「見る」「話す」「触れる」「立つ」という看護の基本中の基本をただ徹底させるだけですが、そこには精神論でもマニュアルでもないコツがあるのです。開発者と日本の臨床家たちが協力してつくり上げた決定版入門書!
片山洋次郎、田畑浩良、藤本靖『共鳴するからだ 空間身体学をひらく』(晶文社):本来備わっている「自己調整力」(自らが整う力)を引き出す方法、「間合い」の全容とは。三人のボディワーク施術者=「間法(まほう)使い」による、数十年の年月をかけた探求が明らかに。「からだの力」を取り戻し元気になりたい、すべての人へ届ける智慧とメッセージ。
井戸川射子『私的応答』(講談社):1995年、その時、まず驚きだけがあった。母と娘の厚美と三人で暮らす銅子を襲った地震。開けた場所に皆で布団にくるまって感じた恐怖、倒れたミシン、昨日とは違う景色、避難所の体育館、シャワーを浴びにいった梅田……。震災から幾年月、銅子と厚美の日常は続いていくが、あの経験を忘れるということはなく――。芥川賞作家の静謐な筆致が紡ぎ出す、昭和から令和、母娘三代に流れる「時間」と震災の「記憶」の物語。
町屋良平『生活』(新潮社):渋谷の隣、代官山の古い一軒家で父と暮らす椿は二十歳になったばかり。バイト代はほぼ服に費やし、友達に囲まれ、彼女ができたり振られたりの一見刺激的な日々。だがそれはいつまで続くのか。果たして「生活」と言えるのか──文芸の最先端を突き進む作家による、偶然と必然に彩られたジェットコースター・ストーリー。

